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サウイウモノニ ワタシハナリタイ (そういうものに わたしはなりたい)


宮沢賢治の「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」

花巻で生まれ育った私は、小学生のころ全文諳んじることができた。この詩にモデルがいたことは知らなかった。

斉藤宗次郎  花巻市の寺の住職の子として生まれる。小学校教員となるが、病に患い病床で手にした新約聖書に救われたという。熱心にキリスト教の伝道を行った為、仏教界から迫害、実父、兄と破門、絶縁される。教職を失い家も失い、新聞配達をしながら祈りの生活をした。町を歩けば石を投げられ、スパイと罵られ、デクノボーと呼ばれた。幼い娘は「ヤソの子」と呼ばれ、いじめやけがを負わせられたりして亡くなった。それでも貧しい家に寄っては慰め、病気の人を励ました。冬には通学路の除雪や吹雪には子供たちを送って行った。賢治が農学校教師をしていた頃、新聞配達中の宗次郎と、クラッシック音楽を楽しんだという。賢治の妹の病気の治療や農作業についてアドバイスを求めた。妹の死の床に宗次郎が呼ばれた時、心を込めてキリスト教の救いを語ったという。

そんな宗次郎が花巻を離れる時、たくさんの人が駅へ見送りに訪れ別れを惜しんだそうである。

デクノボーと呼ばれながら信仰に生き、町の人達に仕えた生き様が、人々を変えたのであろう。

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